七五三といえば、きれいな着物を着て千歳飴をもらって…と、なつかしい思い出でいっぱいになります。

しかし、この七五三、自分が親になって我が子にお参りをさせようという段階になると少々ややこしくて悩むことになります。

そもそも神社へお参りして千歳飴を買ってもらってといったシンプルな行事のはずなのに、ルールが少々ややこしいな、と思いませんか?

男の子は3歳と5歳(地域・家庭によっては5歳だけ)に祝い、女の子は3歳と7歳といったように、男の子と女の子によって異なる年齢でお祝いするなどはその典型的な例です。

ここでは、一見シンプルで実はあいまいなところの多い七五三という行事について、その由来や意味を、できるだけわかりやすく説明することにします。

七五三の由来とは!?

由来 七五三 意味

七五三のルーツは、平安時代の貴族社会です。

しかしその背後には、当時の日本のすべての家族が直面していた、厳しい現実があります。

医療の発達していない時代には、子供が幼いうちに亡くなってしまう可能性が高かったのです。

そのため特に宮中や公家の家では、子供が無事に成長することを祈って、成長の節目ごとにさまざまな儀式を行っていました。

子供の成長を節目ごとに祝い・祈るさまざまな儀式は、平安時代から室町時代にかけて次第に整いました。

そして江戸時代に入ると、武家や裕福な町人の家庭においても、これらの儀式が行われるようになります。

年齢ごとに別々行われていたそれら儀式のうち三歳・五歳・七歳のものがひとまとまりになって「七五三」の名前で呼ばれ、一般庶民の間にも広まるようになったのは、さらに明治時代に入ってからです。

これが七五三の由来です。

怖い意味もある!?

昔の日本には「七歳までは神の内」という言葉がありました。

乳児亡くなる率があまりに高かった故のことかもしれませんが、七歳までは人間としての権利すら認められず、神様から授かった預かり物と考えられていたのです。

そのため、その子どもが何かの理由で共同体の未来の一員として不適格だとみなされると、その子どもは間引かれてしまう、という恐ろしいことも、ときには行われていたようです。

「七歳までは人間ではない、預かった神様に返すのだ」と考えて良心をごまかしていたのでしょう。

間引かれてどこかに捨てられた子どもは「神隠しにあった」という表現で片付けられていたようです。

そしてこのような選別を行うのに適当だとされていた時期が七歳、五歳、三歳だった、というのです。

庶民の生活が極端に厳しかった時代の、七五三のもうひとつの話、もうひとつの怖い側面です。

真偽のほどは定かではありません。

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なぜ三、五、七歳なの?七五三の意味は!?

七五三のルーツとなったのは、「髪置き(かみおき)」「袴着(はかまぎ)」「帯解(おびとき)」の3つの儀式です。

三歳のお祝いのルーツは「髪置き(かみおき)」の儀です。

平安時代の貴族社会では、男女とも生まれて7日目に産毛を剃って、3歳までは坊主頭まで育てていました。

三歳の春から髪の毛を伸ばし始めるのですが、その際に「髪置き(かみおき)」の儀式を行ったのです。

五歳のお祝いの場合は「袴着(はかまぎ)」の儀です。

平安時代には、五歳から七歳になると、はじめて袴(はかま)を身につける「袴着(はかまぎ)」あるいは「着袴(ちゃっこ)」と呼ばれる儀式があります。

室町時代になると、この儀式は11月15日に行うものと定められ、江戸時代になると、それまで男女とも行っていたのが、男の子のみが行う儀式になりました。

この儀式は現在の宮中でも続けられています。

そして七歳になると「帯解(おびとき)」の儀が待っています。

この儀式は鎌倉時代にはじまり、室町時代に正式なものとして扱われるようになりました。

それまで身につけていた子供用の着物は、ひもを使って着付けていたのですが、それを取り去って、大人と同じように帯を結ぶようになる儀式です。

儀式がはじまったころには、男女とも九歳で行われていましたが、江戸時代の末ごろから男の子は五歳、女の子は七歳に変わりました。

この3つの儀式から、三歳、五歳、七歳という年齢の節目が決まり、しかも男の子は三歳と五歳、女の子は三歳と七歳でお祝いをする、という現代の七五三のルールが定まりました。

11月15日にお祝いをするようになったのはなぜ!?

そもそも七五三のお祝いを、なぜ11月15日に行うことになったのでしょうか?

いくつかの説がありますが、一応理屈が通っているのが、旧暦11月の「鬼宿日(鬼が家にいて外を出歩かない吉日)」が15日だったから、というものです。

あるいは、旧暦の11月15日には「収穫祭」を行うのが常だったため、収穫の感謝と子どもの健康の祈願を兼ねて神社にお参りに行ったという、実用第一の説もあります。

また徳川幕府がらみのエピソードとして、将軍家光が息子徳松(後の綱吉)の健康を祈願した(その結果、病弱だった徳松は健康になってすくすく成長した)のが11月15日だったという説や、将軍綱吉が子どもの髪置きのお祝いをしたのが11月15日だったという説もあります。

また男の子の「袴着の儀」は前記の通り11月15日に行われることになっているので、

当時の暦の上で11月15日が吉日だったというのが、いちばん自然かもしれません。

そうだとすると、やはり「鬼宿日」説が最有力、という結論になるのでしょうか。

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七五三に欠かせないお菓子「千歳飴」の由来とは!?

由来 七五三 千歳飴

七五三のお祝いに欠かせないものといえば、やはり「千歳飴」かもしれません。

「千歳飴」とは文字通り「千年飴」という意味で、子どもの健康と長寿を願ってつくられた紅白の長い棒状の飴のことです。

この飴は、江戸時代に浅草のある飴屋が考案して、長生きするようにという願いを込めて、長い袋に「千歳飴」と書いて売り出したのが始まりとされています。

人々は千歳飴を子どものお参りのみやげとして買って帰り、「お福分け」として親戚やご近所に配る習慣がありました。

まとめ

七五三の由来や意味を、いろいろな角度から紹介しました。

ルーツが古く平安時代にまでさかのぼること、時代による複雑な移り変わりを経てきていること、もともとは宮中・公家など上流社会の文化で、それが庶民に広がったのは明治以降のことであることなど、さまざまなことがわかりました。

しかし庶民の生活が極端に貧しかった時代には、人間らしい感情さえ贅沢であったのかもしれない、という七五三の暗い側面も感じ取ることができました。

 たとえそうであったとしても、七五三という行事が現在も続いているという事実が次の大切な事実を示しています。

生まれた子どもが元気に育つようにと願う親心は、いつの時代でも変わらないということです。

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