男子学生が着る、詰め襟で上下共布の学生服の通称を「学ラン」といいます。
「学ラン」が歴史に登場したのは、いつごろのことでしょうか?
ここでは学ランの歴史を振り返ると共に、卒業式で女子学生が好きな男子学生から、学生服(学ラン)の第二ボタンをもらう、という風習について、簡単に説明を加えます。
学ランの言葉の由来や意味とは!?
男子が着る学生服のことを「学ラン」と呼ぶことがあります。
詰め襟でなければ学ランとは呼びません。
最近は高校を中心としてブレザー型の制服が導入される場合も多いですが、この種の制服は学ランとはみなされません。
この「学ラン」という言葉のルーツとして、ふたつの説が考えられます。
どちらの説にも「阿蘭陀(オランダ)」の「蘭(ラン)」という言葉が関係しています。
ひとつの説は江戸時代、洋服のことを「オランダ人が着る服」という意味の「蘭服(ランフク)」と呼んでいたことに由来します。
明治時代に入ってすぐの洋服を着ることが珍しい時代、帝国大学などで制服と定められた詰め襟の洋服を、そのため「学生が着る蘭服」すなわち「学ラン」と略するようになったそうです。
もうひとつの説は、明治初期の学生は読み書きや儒学を除いた新しい学問(洋学)を、エリート意識とそれに対する反発から、「(江戸時代の西洋文化の窓口だった)オランダ渡来の学問」つまり「蘭学(ランガク)」と呼ぶことがあったことに由来します。
洋学の象徴であった自分たちの着る制服を、蘭と学をひっくり返し、半ばからかいの気持ちで「学蘭」すなわち「学ラン」と呼ぶようになった、というものです。
学ランのルーツ!いつから着るようになったの!?
学ラン、つまり詰め襟の学生服は、前記の通り、明治時代のはじめに登場しました。
その直接のはじまりは、東京帝国大学が1886(明治19)年に詰め襟型学生服を制服として採用したことだとされています。
同じ年には、文部省の通達で全国の高等師範学校でも詰め襟型の学生服が採用されました。
その後、詰め襟型の学生服は、中学校以上の男子学生以上の制服として広く採用されるようになりました。
ただし当時はまだ洋服姿は一般的ではなく、普通の学生は着物姿に下駄履きに学生帽、本は風呂敷に包む、という姿で日常の授業を受けるのが普通でした。
制服は、一種のぜいたく品として、卒業式のときのような特別な時だけ着用するのが、普通だったようです。
しかし大正時代も中頃まで進むと、第一次世界大戦に伴う好景気や洋装の普及に伴い、学ランも全国へ普及して、学生の当たり前の姿となっていきます。
その一方で、昭和に入って戦時色が強くなって、1940(昭和15)年には国民服が誕生、それが全国共通の通学服として用いられるようになります。
このため、学ランは一時的に学生たちの日常から消滅し、終戦とその後の混乱が落ち着くまでは、その姿が見られなくなりました。
学ラン姿が学校に戻るのは、戦後の復興がある程度まで進んだ1950年代に入ってからです。
しかし1960年代に入ると、大学生の服装は自由化され、学ランはごく一部の大学生が着用するだけになりました。
一方、中高生にも自己主張の波が訪れ、一部の学生の間には学生服の丈やズボンの形を変える「変形学生服」を着用する動きが出てきます。
変形学生服のブームは1980年代にひとつの波を迎え、いわゆる「不良」でない一般の学生にもその動きは広がりました。
しかし現在では極端な改造を学生服に加えることはなくなり、「学ラン」ではないブレザー型の制服が普及したこともあって、「変形学生服」の動きは一時に比べて下火になっています。
今の男子高校生は、学ランを着ることは少なくなったかもしれません。
大学生に至っては、応援団に所属する学生などごく一部の例外を除いて、学ランを着用する機会は完全に無くなった、といっても差し支えありません。
しかし男子中学生の制服としては、まだまだ詰め襟の学ラン姿は健在です。
好きな人に学ランの第二ボタンを貰う風習の由来とは!?
女子学生が好きな男子学生から、卒業式の時などに学ランの第二ボタンをもらう、ほほえましい風習は有名で、かなり広まっているようです。
この風習の由来は、第二次世界大戦の時代までさかのぼります。
誰もがその日を精いっぱい生きるのに懸命だった時代です。
由来となるエピソードも「ほほえましい」を通り越した、悲しみに満ちたものです。
学徒出陣で出征する兵士が、好きな女性に自分の思いを伝えるために、学生服の第二ボタンを渡したことが、この風習の始まりだとされているからです。
ある男子学生が、出征中の自分の兄の奥さんを好きになりました。
兄の奥さんの方も、薄々感づいていたかもしれません。
しかしお互いに思いを打ち明けることが許される事態でも時代でもありませんでした。
やがて男子学生にも出征の時がやって来ます。
彼は何も語らず、兄嫁に制服の第二ボタンを渡して旅立って行ったとのことです。
なぜ学制服なのかというと、本人が学生であったことの証でもあり、学生としての誇りの源でもあり、本人が肌見放さず身につけていたものだからでしょう。
そしてなぜ学生服の第二ボタンなのかというと、自分の心臓に一番近い位置にあるボタンだからということと、小さな金属ボタンなら相手に大切にしてもらえる、という思いが理由でしょう。
物資不足の時代だから、他に思い出の品として適切なものを渡すことができないという理由もあったかもしれません。
このエピソードは戦争中の軍国主義の時代には語ることは当然許されず、封印されたままになっていました。
しかし戦後この話を男子学生の恩師から聞いて感動した校長が生徒に話し、それが少しずつ広まっていったと伝えられています。
まとめ
学ランの由来、着用の歴史、卒業式のときに女子学生が好きな男子学生から制服の第二ボタンをもらう風習の由来など、学ランに関するいろいろなエピソードを紹介しました。
ここでわかったことは、日本中であたりまえのように見かける男子学生の黒い詰め襟服に、さまざまな文化や風習や歴史の移り変わりが詰まっている、ということです。