かるた遊びは、日本では古くから親しまれてきた独自の文化のようなものでしょう。
お正月にかるた遊びをした思い出のある方も多いのではないでしょうか?
かるたは読み札と絵札を使いますが、文字を覚える前の小さなお子さんでも絵を見て一緒に遊ぶことができたり、それによって言葉や文字を覚えることができたりと、知育玩具的な位置づけにもなりますね。
一般的にかるたは、百人一首を用いた『百人一首かるた』といろは歌を引用している『いろはかるた』に分けられます。
百人一首かるたの場合、和歌を覚えることができたり昔の文学や触れることができるという魅力もありますし、近年では一対一で札を取り合う競技かるたの認知度や人気が急上昇しています。
いろはかるたは「犬も歩けば棒にあたる」などといった私たちも良く知っていることわざを使ったもので、広い年齢層の方に親しまれるものになっています。
そこから発展して、小さなお子さんがより親しめるようにと、人気のキャラクターなどを使ったかるたも多くみられますよね。
今回は、そんな幅広く奥深いかるたについて、由来や歴史などを中心にご紹介します。
かるたの語源や歴史とは!?
かるたの起源には諸説ありますが、その中も有力な説が2つあるそうです。
一つ目は、平安時代から伝わる貴族の遊びであった『貝覆い(かいおおい)』『貝合わせ』です。
この二つは同じものとされがちですが、もともとは違う遊びであったようです。
貝合わせというのは、持ち寄った貝の美しさ比べるもので、和歌を添えて優劣を競い合ったといわれます。
一方の貝覆いは、二枚貝であるハマグリがもともと対になっているもの同士でないとぴったり合わないことを利用した遊びで、貝の外側の模様などから対の貝を探すというものでした。
やがて貝の内側に、対になるように当時の文学などを題材とした絵を描くなどの装飾を施すようになり、室町時代になると対になる貝のそれぞれに上の句と下の句を書いた『歌貝』というものが生まれたそうです。
歌貝にはそれぞれの句が100枚あり、上の句を読み上げて下の句を取るという、現在の百人一首の遊び方に近いものであったということです。
二つ目の説は、16世紀頃から始まった南蛮貿易がきっかけでポルトガルから伝えられたというものです。
『南蛮かるた』といわれるもので、ポルトガル語で『手紙』『カード』『四角い紙』などを意味する『carta(カルタ)』が語源となっているといわれます。
一方、日本製のかるたの発祥の地は福岡県大牟田市の三池地方で、当時の元号にちなみ『大正かるた』とよばれたということですが、主にかけ事などに使われたために禁止命令が出たという歴史を持つそうです。
このかるたがもとになり、いろはかるたや百人一首、花札など様々な種類のものが考えられたということなのですね。
百人一首の名前の由来や歴史とは!?
百人一首がかるた遊びとして取り入れられたのは戦国時代のころだといわれており、はじめは宮中や諸大名の大奥で行われていたものが年中行事になったのだそうです。
当時は庶民にはまだなじみの薄い遊びでしたが、江戸時代に入り木版画の発展や南蛮かるたの影響で徐々に広まっていき、『小倉百人一首』として各家庭にも取り入れられていくことになります。
明治時代に入ると、東京カルタ会というものが設立されて大会が開催されるほどの人気となったということです。
百人一首はそもそも百人分の歌を集めた歌集のことですが、現在ではかるたの代名詞といえるほどの印象を受けますよね。
その中でも、鎌倉時代の歌人である藤原定家が、飛鳥時代から鎌倉時代初期までの代表的な百人の歌人の和歌を一人一種ずつ選んだ『小倉百人一首』は、いわゆる秀歌撰としては最古のものといわれます。
秀歌撰とは『優れた歌を集めたもの』という意味で、この小倉百人一首は後に作られる様々な種類の百人一首のお手本的な存在となっています。
この小倉百人一首が完成したのが1235年5月27日ということで、5月27日は百人一首の日となっているそうです。
小倉百人一首の選出元
天皇の勅命により選出された歌集(勅撰集)から選ばれ、年代順に並べられています。
- 古今和歌集(醍醐天皇):24首
- 後撰和歌集(村上天皇):7首
- 拾遺和歌集(花山院):11首
- 後拾遺和歌集(白河天皇):14首
- 金葉和歌集(白河院):5首
- 詞花和歌集(崇徳院):5首
- 千載和歌集(後白河院):14首
- 新古今和歌集(後鳥羽院):14首
- 新勅撰和歌集(後堀河天皇):4首
- 新後撰和歌集(後嵯峨院):2首
百首の中には恋の和歌が43首あり、季節では秋のものが一番多く選ばれており、作者では女流歌人が21名、僧侶が15名含まれているということです。
お正月にかるた遊びを行うようになったのはなぜ?
かるた遊びはお正月の風物詩としてもなじみのあるものですが、そもそもなぜお正月に遊ばれるようになったのでしょうか?
これについては、何か特別な理由や起源があるというよりは、もともとは宮中の遊びであったかるたが庶民にも広まっていく中で、子どもたちや若者、親戚などが集まる際に百人一首で遊ぶことが多かったということからきていると考えられます。
中でも子どもたちはお正月には夜遅くまで起きて遊ぶことが許されたり、江戸時代後半以降には百人一首のための会が行われたりしたことから、現在もかるたがお正月の風俗として定着しているのではないかといわれています。
かるた遊び自体も様々な遊び方や種類が広がっていきます。
百人一首かるたと同じく人気のある『いろはかるた』には様々なことわざが用いられており、子どもたちが楽しく遊びながら文字やことば、ことわざを覚えられるようにと江戸時代後期に考案されたそうです。
代表的なことわざとしては『犬も歩けば棒にあたる』『論より証拠』『花より団子』などがありますが、その内容は江戸と京都、大阪、尾張などで違いがあるというところも興味深いところでしょう。
かるたが人々の生活や地域に根ざした特色ある遊び文化であることが、ここからもうかがえるでしょう。
また、百人一首の絵札を楽しむ遊び方としては、『坊主めくり』も良く知られています。
絵札の山をめくり、出た絵柄が男性であるか女性であるか、また天皇や坊主の場合によって手持ちの札の出し入れがあるというもので、和歌に馴染みがなかったり文字を読まなくても、トランプのような感覚で気軽に遊べるのが魅力ですね。
まとめ
日本のお正月の風物詩として昔から伝わるかるた遊びについてご紹介しました。
その由来には、平安時代の貴族の女性たちが行っていた貝合わせや貝覆いという優雅な遊びがあり、それが後に庶民に広まっていったという説、また鉄砲などと同じように南蛮貿易がきっかけでポルトガルから伝わったという説などが存在します。
これが、日本の文学である小倉百人一首と融合して多くの人々に取り入れられ、さらに庶民や子ども向けのいろはかるたが親しまれていくのですね。
現在では競技かるたも認知度が急上昇してきており、時代を越えて日本人の心の中に根ざしている文化になっているということがよくわかります。
一人ではなく数人でにぎやかに楽しむことができるというところが、人々が集まるお正月などの遊びとして取り入れられやすいものであることが何よりの魅力ですね。